2014.10.30
設計の池田です。
埼玉県の中浦和駅から徒歩5分くらいの所に別所沼公園という公園があります。
その公園内の沼のほとりに1軒の「小屋」が建っています。
「家」と言うにはあまりにも小さいその小屋は床面積約4.5坪の本当に小さな小屋です。
これは、昭和初期に詩人で建築家でもあった立原道造の建て”ようとした”週末住宅、通称「ヒアシンスハウス」です。
当時、浦和市郊外の別所沼周辺には多くの画家が住み、「鎌倉文士に浦和画家」と呼ばれ、神保光太郎や須田剋太、里見明正らが住んでおり、一種の芸術家村のようになっていました。
ヒアシンスハウスは立原がこの地に移り住むことを決め、その住まいとして計画していた小屋なのです。
立原は自身の詩で次のように詠っています。
—–
僕は、窓がひとつ欲しい。
あまり大きくてはいけない。そして外に鎧戸、内にレースのカーテンを持つてゐなくてはいけない、ガラスは美しい磨きで外の景色がすこしでも歪んではいけない。窓台は大きい方がいいだらう。窓台の上には花などを飾る、花は何でもいい、リンダウやナデシコやアザミなど紫の花ならばなほいい。
そしてその窓は大きな湖水に向いてひらいてゐる。湖水のほとりにはポプラがある。お腹の赤い白いボオトには少年少女がのつてゐる。湖の水の色は、頭の上の空の色よりすこし青の強い色だ、そして雲は白いやはらかな鞠のやうな雲がながれてゐる、その雲ははつきりした輪廓がいくらか空の青に溶けこんでゐる。
僕は室内にゐて、栗の木でつくつた凭れの高い椅子に座つてうつらうつらと睡つてゐる。タぐれが来るまで、夜が来るまで、一日、なにもしないで。
僕は、窓が欲しい。たつたひとつ。……
—–
結局、計画中に立原が結核により急逝したため、この小屋は実現しませんでした。
しかし、70年後の2004年、建築家の永峰富一氏や市民団体により敷地を公園内に移し建築されたのです。
見学がてら内部をスケッチしてみました。
東西に約6.2m、南北に約2.4mの4坪ちょっとの都内のワンルームのアパートよりも小さな空間ですが、中に入ってみると驚くほどその狭さを感じさせません。
南東の角に開かれた大きな窓を開け放つと沼の詩の通り湖水のほとりのポプラの並木も、湖水に浮かぶボートも見る事が出来るようになっています。
この窓には21cmくらいの幅のカウンターがついておりスツールを1つ持って来れば確かに何時間でも外を眺めていたくなり、うつらうつらうたた寝をしてしまいたくなる事は間違いないでしょう。
内部にもその狭さを感じさせない工夫が随所に見られました。
栗の木で作られたテーブルは幅45cm×長さ150cmと通常のテーブルと比べるとその幅は半分程度しかありません。
通常テーブルは両面から使う事を想定し、幅が80cm~90cmで作られますが、立原の一人暮らしの事を考えればそんな幅は必要ありません。この45cmほどの幅で十分なのです。
また、北側の壁につけられたベンチとデスクも必要最小限の寸法になっています。
家具を1か所にまとめる事、寸法を最小限に抑える事によって内部の空間を必要以上に圧迫せずにゆったりとした空間をつくり出しています。
北側には2枚引違の窓が2個ついているのかと思うと実はレールを共有しており、4枚全開にすることが出来るので抜けを作る事が出来ます。
部屋の奥、西側にはベッドがあり小さな窓が開いています。
照明は60w程度のペンダントライト1つ。この広さでも夜は決して明るいとは言えないほどの光量だと思いますが、昼に執筆などをして、夜は静かに寛ぐのであれば必要十分な明かりなのではないでしょうか。
北東側の小部屋は現在管理用の給湯室になっていますが、原設計ではトイレが作られる予定の部分でした。
巧みな配置計画と寸法の操作によって見学に行った当時は管理人の方1名と他4名の見学者の5人がこの部屋に入っていましたが全く窮屈さを感じる事はありませんでした。
「必要十分」な大きさの中に豊かな空間を作り出されていました。
私たち現代に生きる人間はなるべく大きな床面積、なるべく高い天井高を求めがちです。
しかし、この必要十分な大きさの中の密度を高めるという選択肢も考え方の一つになるのではないかと言う事を思いました。
さて、ここで気が付いたのですが、立原がもともと計画していた敷地は沼の東側の敷地でした。現在は沼の西側に建てられている為、なんの疑いも無く南東の大きな窓が立原がほしかった「たった一つの窓」だと感じていましたが、このヒアシンスハウスが計画通りに建っていたのなら建物からみて沼は西側、つまり南東の大きな窓からは「湖水のほとりにたつポプラ並木」も「湖水に浮かぶボート」も見る事が出来ないのです。
と考えると詩にかかれた「たった一つの窓」とはベッドの脇につけられた西側の小さな出窓になるのではないでしょうか?
この小屋を計画している時、立原はすでに結核を患っていました。
当時、結核は不治の病の一つでした。
立原はこの小屋に移り住んだ後は症状が進みベッドで伏せる事が多くなると考えたのではないでしょうか?病床から湖水が眺められるようにこの計画にしたのならば、自分の病、そしてその先に見えている死という重いテーマを見つめ、考えられた建物なのではないでしょうか?もし、そうであるならば立原はこの重いテーマを冷静に分析し、この計画をたてたという事になり、なんだか切ない感情が湧くと共にその冷静さに感心するばかりです。
私たちが建物を計画する場合、ついつい非日常の部分に重きを置いてしまう事があります。
しかし、住宅には圧倒的に日常である時間が多く、病気や死などの暗い側面も必ず訪れます。
そうした日常を思い、考えを巡らせ、何事も無い1日を考え作る事も大事な事だと再認識しました。